「勇姿を想う」−新潟の電車たち

3月11日、私は寝不足の体を新潟の土地に迎えていた。一ヶ月前、最後の別れを告げた「新潟交通」「蒲原鉄道」にどうしても、もう一度会いたくなった。いや会わねばならなかった。無鉄砲な情熱をいまこそふるわせて…。

 世間が卒業式を迎える前に大慌てで計画を立て、かろうじて最後の一枚となったムーンライトえちご指定席券(当日は3両編成だった。)と18キップを片手に新潟へと向かった。なぜここまでするのか分からないまま、ほとんど勢いで行動し気がついたら新潟の地に立つていた。

 5時06分、新潟駅に到着。さっそく東関屋に向かい、始発電車から新潟交通の勇姿をしかと目に焼き付ける。これが最後の走りだ、という想いを抱き…。

 

 明治19年、北越鉄道開通(現信越本線)以降、新潟の鉄道は発展し続けた。その新潟の地に電気鉄道が初めて開通。大正12年10月20日、蒲原鉄道五泉−村松間であつた。全盛期には国鉄線は上越新幹線、信越・羽越両本線を軸に米坂、赤谷、白新、磐越西、只見、飯山、越後、弥彦、魚沼線。私鉄線は蒲原鉄道、新潟交通、越後交通、頚城鉄道、栃尾鉄道などが各勢力を築いていた。しかし赤谷、魚沼が消え、弥彦が削られ、越後交通(栃尾鉄道)、頚城交通も消え、新潟交通、蒲原鉄道も削られてしまった。そして鉄道王国新潟に最後まで互いに励ましあってきた新潟交通電鉄線と蒲原鉄道も消えるときがきた。結果、新潟にはJR線と25年の努力が実を結んだ第三セクター線「北越急行」だけとなってしまった。

 人々は、貧しさの中に豊かさを得るため、地域の発展のために鉄道をわが街へと牽いた。そして20世紀初頭、各地で鉄道が牽かれた。が、しだいに人々は鉄道を利用しなくても生活出来るほど豊かになった。車社会の到来である。いつしか人々は自分の街に鉄道が走っている事を忘れ、存在を意識の外に追いやってしまった。

 新潟には田中角栄という偉大な政治家がいた。鉄道との縁も深い。彼のおかげで雪国新潟は豊かになった。道路にはスプリンクラー、融雪装置などがいたる所につけられた。が、その代償は鉄道の廃止であった。廃止対象として第一次国定地方交通線にあげられていた国鉄赤谷、魚沼両線を廃止は遺憾としつつも「道路除雪強化のために国が財源据置配置」を条件にバス転換を認めたのだ。偉大な政治家の決断の影響力は大きく、これ以降全国の鉄道が廃止されていった。時代の流れ、という奴である。

 そして新潟から私鉄が消える。時代の流れには勝てないのか…。身を削ってまでしてきた経営立て直しは無駄だったのか?

 新潟交通東関屋駅は賑やかだった。2月に来たときよりもグッツの量が増えている。よくわからないものが大半だが、やっぱり勢いで買ってしまう人も多いようだ。いったい廃止までにどれほどの人が訪れているのだろうか。いまさら電鉄が売上を伸ばしてもバス路線に利益は吸収されてしまうだろう。それとも撤去費用か…。

 平日だというのに見舞い客が数人いる。これが休日になるともはや大変な混雑ぶりであろう事は容易に想像できる。

 木場駅にて電車を降りる。私一人だけだった。このほうが落ち着くものである。撮影は少ないほうがしやすい。第一、一人の寂しさを味わったほうが廃止線にはふさわしい。私は東関屋駅併設のコンビニで買い溜めた食料を食べながら、数本の車両にファインダーから別れを告げた。小さなレンズに写る風景に感銘を受けながら…。

 磐越西線五泉駅に行く。今回、蒲原鉄道は時間の都合上五泉駅から見送ることにした。それでもこちらは前回、満足のいく乗り方をしたので後悔はしなかった。ただ写真を撮るだけでは申し訳ないのでキップだけは購入した。購入したところでどうにかなるわけでもないが…。

 「蒲原」は潟であった。北、中、南蒲原郡はかってほとんどが潟か沼だったという。潟が干上がって作られた蒲原平野はちょうど村松の辺りでとぎれる。その平野から蒲原鉄道はかつて山を越え、加茂まで向かっていた。

 村松は堀氏三万石の小さな城下町。戦前までは歩兵30連隊所在地として賑わう。が、今は静かな街である。そんな街から4.2キロ。ちいさな電車が、わずか7分の道のりを行ったり来たり、とがんばっていた。都市の喧騒さからは想像できない長閑かな光景。まるでモノクロの世界にいるかのように時間を忘れる。そんな夢の世界にいるような電車。せわしなく生きる日本人が忘れてきた風景。それが蒲原鉄道。

 しかし蒲原鉄道も時間の流れには勝てなかった。時間は忘れても、それは確実に流れていた。そして廃止、という時間が追る。貴重な歴史がここで失われようとしているのが辛い。けして安易に「ありがとう」などと忘れ去ることはできない。小学生のころ「ブルートレイン」や「新幹線」にあこがれた少年は、いま「歴史ある偉大なローカル鉄道」を前に一人、無意味に苦悩する。が、「見上げた青空はたかくて風冷たくてどうにもならないきもちは変わらない」

 夕方。再び、そして最後の新潟交通を訪ねる。おあつらえ向きに雪混じりの雨も降ってきた。七穂駅、そして3度目の木場駅を訪ねる。

 鉄道。鉄道とはいったい何なのだろうか。輸送を目的とし定められた道を進む事しかできない車である。だが、そこにドラマがある。関わるものすべてに影響を与える。人生を与える。夢を、生きがいを与える。

 それを強く意識する人は鉄道ファン、マニア、いろいろに見られる。が、人は皆、鉄道の恩恵を受けている。それがけっして意識されない意識。たとえ無意識の世界であっても、どこかに、深層心理のどこかに、鉄道とともに発展してきた想いがあるはずである。いや、それを感じなくては、申し訳ない。

 鉄道は黒子的役割をはたす。けっして自分からその力を固持する事はない。だから皆、無意識である。つまり鉄道は「土台」であり、「踏み台」である。

 廃止。それは鉄道として役目をおえた、ということであり、踏み台がいらなくなった、ということである。その役目が必要なくなったのか、それとも役目を探せなかったのかはわからない。それは、鉄道の恩恵を受けた地域でしか語れない。鉄道を廃止した答えは5年、10年後に現れる。その時こそ廃止された鉄道が評価されるときが来るのだろう。

 「新潟」というところは長閑かなところだ。しかし明治以降、死に物狂いで「幾多の湖のような潟」を開拓して、新潟の風景とも言うべき「稲作地域」を作りあげた事は、旅人の思いもよらないことである。外来者にとって、その広大な田圃はただ長閑かな風景にしか写らない。その苦労はわからない。

 そんな新潟は鉄道が走っていようが、廃止されようが一向に関係ない、という顔をしているように見える。廃止を話題にしているのは外来者だけであり、その鉄道の周辺はまったく静かである。廃止がまるで嘘のように、ただ毎日が静かに過ぎている。そんな長閑かな新潟がそこに存在していた。

 木場駅で駅請負のおばさんとお客の会話が強く胸に残る。「廃止、廃止と盛り上がっているけど廃止された後の話が全くないね。」「もう3週間位で廃止だというのに、いまだに廃止後のバスがわからないなんて、ほんとどうなっているのかね…」「時間も全然わからないしね。」

 そこには鉄道で生活している人の想いがあった。この想いは旅人にはわからない。ただ新潟交通に対するやるせなさが伝わり、まるで廃止で盛り上がる人間に対する想いをぶつけられた気がした。

 帰りの「ムーンライトえちご」を待合室で待っている間、「今日、運輸省で正式に新潟交通電鉄線の廃止が受理されました。」とニュースに映像が流れる。まつたく無関心な人、「へ一」と驚く人、ふと首をあげる人、テレビ画面を凝視する人。様々な想いが交差し、「本当にこれで良かったのか。」深く想い悩み、首を垂れる白分がそこにいた。

 4月。「新潟交通電鉄線」の物語が終わる。同じ4月29日。磐越西線にC57 180「SLばんえつ物語」号の新しい物語が始まる。ある鉄道の歴史が終わる時、かつての鉄道の街「新津」がふたたび鉄道の歴史を築き上げる。皮肉な運命の巡り合わせ、としかいいようがない。

参考文献は信越鉄道紀行を参照

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