信越鉄道紀行 


1999年2月8日月曜日

 

「なぜ、こんなことをするのか。」一つの疑問を胸に抱きながら、時間の過ぎるのを待つ。早朝の静寂のなか静かに、だが力強くモーター音だけが響きわたる。無為に考えさせられる5分間。 

 4時57分、始発電車が「東武東上線」志木駅を発車する。思ったより人は多い。が、それは通勤、通学者であり旅支度なのは私一人。思えば今は2月。一番旅にふさわしくない頃であり、一番寒い頃である。こんなときに旅をする人間にろくな奴はいない。

 59分、朝霞台駅に到着。一駅だけで降りる。そのまま「JR武蔵野線」北朝霞駅へと歩く。外は暗い。が思ったよりも寒くはない。心が緊張しているからなのかもしれない。

 高架ホームに立つのは自分一人。冷たい風の音とともに、開店前の店支度の音がどこからか聞こえてくる。唐突に貨物列車の音が静寂を破る。一層の爆音を鳴り響かせホームが震え、風が舞う。闇のなかを駆け抜ける姿に、ふと貨物の怖さと悲しさ、孤独感を知る。

 5時19分、小さなランプが遠くから迫る。見えてきたのは「武蔵野103系」である。入線、すぐに発車。まことにテンポが早い。

 車内は寒い。どうやら暖房が効いていないようだ。あいかわらず愛敬のある「ガタガタ」音を撤き散らす「103系」。格別うるさい窓がある。いつ乗ってもうるさいのが「武蔵野103系」。でもこいつに乗るのが楽しみであったりもする。すきま風があるようで今ごろになって寒さが身に染みる。ここで車内でじっとしているのが一番寒いと悟ってしまった。だからといっていまさら席を移る気も起きず、そのままふてくされる。

 向こうに「貨物」がみえる。「新座貨物ターミナル」のようだ。闇の中に広がる側線に何とも言えない物悲しさが漂う。

 新秋津駅に入線する。あまり知られていないが、ここから西武線につながる貨物連絡ヤードがある。もっと有効利用すればよいのだが、所詮無理な話である。

 

 5時39分、やっと暖房の効いてきた「武蔵野103系」ともここでお別れ。西国分寺駅で乗り換える。そのまま「JR中央線」ホームヘと向かう。駅構内を傍若無人に鳩が飛び回る。なにやら不気味だ。私は鳩が嫌いだ。このあと悪いことが起きなければよいのだが…。

 50分「中央線201系」が入線する。なんて事はない「201系」。西国分寺から高尾まであまり面白みのない画一化された車窓が広がる。いたって都会的である。

 6時15分、高尾駅到着。すぐに乗り換え。1分接続。待機していたのは紺に白の「スカ色の115系」。久しぶりに乗る115系。やっと、都会の雰囲気を捨て去ることができそうだ。だが、この時は思いもよらなかったが今思えば、このあと「115系」地獄ともいうべき事実に長野・新潟で直面することになったのだ。まあ、それはあとの語である。

 高尾駅をでると、まったく違った。この先はいきなりローカル線になっていた。相模湖を抜けあっという間に山梨県へと電車は進んでいく。「えっ、こんなに近いんだ。」山の中腹をぬって走る「115系」に驚きを感じる。 

 空は闇から青白く変化を始め、20分ほど時間をかけ、ゆっくりと、確実に明るくなってきた。東の山は朝日をうけて赤く光り、西には見事なグラデーションがほどこされた紺色が広がる。駅では懐かしい「発車ベル」の音が響きわたる。今日は週の始めの月曜目。人々はそんなことを感じる余裕すらないのか、通勤通学の為活発に、しかし右往左往する光景が悲しげに繰り広げられる。甲府に向かう電車は斜面をぬって走る。それは駅の角度が急な事でもわかる。15度、20度はありそうなぐらい車体は傾いている。風景を見入り、背景を感じていると唐突に「携帯電話」の音が車内に轟く。どうにもよくない。いっきに現実を感じざるをえなくなった。

 6時53分大月駅着。上り線には「201系」が待機している。ここは「富士急行線」の乗り換え駅でもある。一分停車で発車。車窓から「富士急行」をみる。なんだか「ブルーインパルス」みたいな奴がそこには止まっていた。つまり青と白、二色塗装である。格好が良いのだか、悪いのだか…。

 7時を過ぎ、そろそろ学生が多く騒がしくなる。甲府に近付くにつれ、騒々しくなる。「やかましい、静かにしろ」平日の旅人ゆえの身勝手さを胸に抱き、ふて寝する。

 7時44分メロディーの騒々しさに目覚めるとそこは甲府駅だった。背広には動きがあるが、困ったことに学生服に動きが見られない。「いいかげん早く降りろ」心の中でつぶやく。

 8時23分、長坂駅。学生は一気に皆降りる。ホームには学生があふれる。まさに、ありんこ状態。「おいおい、こんなに乗っていたのかよ。」思わず唖然としてしまう。次はいよいよ小淵沢駅である。8時31分、小淵沢駅。私の車両は気づいたら乗客は2人だけになっていた。10分前の騒々しさが嘘のようである。「10時05分、小海線連絡です。」とアナウンスが流れている。「おいおい、あと1時間30分もあるぞ。平気で連絡です、なんて言うなよ。」他人ごとではあるが、一応心配してみる。ここでは噂の駅弁「元気甲斐」が売られている。が30秒ほどの停車ですぐに発車。さすがにホームを走って買いにいく勇気は持ち合わせていない。だいいち一人旅だと荷物が心配でうかつに動けない。余談だが、私の装備はリュックには受信機、アンテナ、時刻表、その他もろもろ。それにカメラバッグには一眼レフカメラ2台に交換レンズ、一脚など。なかなかの重装備である。さらに他の荷物は新潟に郵送してある(服、三脚など)。う一ん、結構大変なものがある。まあ、カメラの話は後できちんとする予定。

 しばらく山を越える。越え終わると8時50分、茅野駅に到着。この先の信号所から岡谷まで線路は単線になる。

 56分、上諏訪駅。ここは温泉の駅として有名である。横に目をやると、諏訪湖が見える。当然といえば当然か。もやのなか、かすかに浮かび上がる対岸の幻想的な風景に感動する。車内放送にて松本行きの快速が岡谷駅にて待機しているのを知る。早く松本に到着しても後の接続には変わりがないが乗り換える事にする。9時05分、岡谷駅着。見るとオレンジと濃緑色の、つまりカーキ色の「115系」が待機。9時08分発車。ここいらは「JR東目本」と「JR東海」さらには「JR西目本」が入り乱れている地域でもある。トンネルに入る。つまりこの線は「みどり湖」経由である。この経緯も後程書きたい。

 

  9時32分、松本駅着。中央東線、篠ノ井線(塩尻一松本)ときたJRの旅もひとまずここで終了。ここから「松本電鉄・上高地線」に乗り換えることにする。ホームはJRと共用し、6番線を「JR大糸線」、7番線を「松本電気鉄道」が使用している。9時43分、丸々とした愛敬のある、それでいて悲しげな過去を持っていそうな車両がやってきた。元東急5000系の二両編成だ。車番は5001+5002とある。まずは、何も考えずに乗り込む。久しぶりのローカル私鉄だ。今回の旅では、長野県はあくまで前座であった。しかし、この雰囲気を味わってしまい、疲労がたまった体も忘れ、気持ちが高揚してきた。

 9時50分、20名ほどの乗客をのせ、出発する。小さな駅が続く。乗客も小刻みに動く。これは完全に地域密着型として安定している証拠である。怪しげなグッツを売って商売をしよう、という気配も見られずいたって健全である。余談だが「新潟交通」や「蒲原鉄道」がグッツ販売をするのは廃止が決まっているからしかたがないとして宮城県の私鉄から第三セクターに転換(これもやぱいが)された「くりはら田園鉄道」が販売していたのは、かなりやばいのかも知れない。ひそかに廃止侯補として目が離せない「くり電」である。

 余談ついでに、長野県の私鉄3杜は実質上「東急」グループの傘下であると言ってもよい。なぜなら3杜とも「東急」の車両がメインで走っている。まあ細かいことは後に書きましょう。

 10時04分、新村駅。ここには車庫と変電所がある。といっても一編成が停車しているのみ。あとは除雪用に米国製の電気機関車「ED301」が待機している。車庫だけ見ると寂しい路線だが、ここには、開業当時(1921)からの木造駅舎が使われており、正面入口には松本電鉄の前身である筑摩鉄道の杜紋が飾られている。さらに駅構内には昭和34年4月末に廃車にされた「ハニフー号客車」が保存されている。これは、木造で1904年の制作であり国鉄最初の電車。もと「甲武鉄道デ968」、大正時代に電装を解除され、信濃鉄道を経て入線したものである。以上のようにいろいろあり、実際のところ降りようかとも迷ったのだが接続上、後の時間がつまっており、車窓から眺めるだけにとどめたが、そんなこととは知らぬ電車は無情にもあっという間に先へと進んだ。

 途中、森口駅で交換し終点である新島々駅に到着したのは10時20分。最後の駅で降りたのは自分と女学生の二人だけ。「松本からここまでが片道680円。戻るときにも680円だからあわせて1360円…。」などと考えながら折り返し時間を確認すると30分後とある。すこし時間があるから外を歩くことにする。実は1986年まではこの先にもう一駅、島々駅があったのだが洪水により廃止されており、それを行けるところまで歩いてみようと思い立つたのだ。線路は結構続いており、遠くからみると電車が走っていてもおかしくない状態が続いている。が目をこらすと赤錆ており、民家の裏庭的になっている。前をみると先ほどの女学生(女子校生ではない。女学生のほうが雰囲気に合っている。)に向かって歩く羽目になってしまった。彼女がふと後ろを向く。急に足早に警戒するかのように彼女は歩き始めた。どうやら車内では落ち着きがなくそわそわしていて、今はきょろきょろとあたりを見渡しながらカメラをぶら下げてうしろを歩く私を都会で噂のストーカーとでも見たのだろうか。

やるせない気持ちを抱きつつ「まあ時間も時間だし」と、一人納得させるように線路の確認をやめ、駅に戻ることにした。新島々駅前には旧島々駅舎が復元され観光案内所となっている。が、平目冬期の観光案内は開いていなかった。まあ、観光するような用事もないのだが…。

 時間になり、車内へと乗り込む。客はどう見ても私一人だった。そこへ唐突に駅員さんが私に声をかけてきた。「電車に乗りに来てくれたんですか?どうもありがとうございます。よかったらこれ差し上げます。」とのこと。いただいたのは「上高地線のご案内」というパンフレット。「ただの乗りつぶしの客にここまでしてくれるとは、なんていいところなんだ。」ここまできて本当に良かった、そう思わせられる人の暖かさを感じることが出来た。まあ乗ってすぐに戻るような乗り方をするような奴は「乗りに来た」奴でしかないが…。おぱあさんが乗ってきた。おぱあさんは当然のように私に「おはようございます」と挨拶をしてくれた。人のぬくもりに感じていた私はすぐに挨拶をかえす。「ローカルだ。これこそローカルの醍醐味だ。」そう強く思ってしまう。

 冬の上高地は寂しいところだ。夏は避暑地として盛り上がっている所だが冬期は沿線のバスのほとんどが運休である。だから観光客などはやってこない。でもそこでは鉄道を通して人のぬくもりを感じることが出来た。

 10時50分、新島々駅に別れを告げる。復路の車内で車両数を数えてみたがどうやら5両しかなく、うち3両が動いているように思われる。零細私鉄の健気な頑張りように私は強く胸をうたれ、充実した1時間を過ごせた、とおおいに満足することができた。

 

 11時19分、松本駅に戻ってきた。11時31分、うまい具合の接続で長野行きが発車する。また「115系」である。とりあえず乗ってから一つのことを考える。それは長野から、いかに「長野電鉄」と「上田交通」を乗るかということである。実はどうしても目没(目安として17時)までに回りたい。それは日暮れに近付くとカメラを使いにくくなる、という単純な理由からではあるが…。時刻表でルートを検討した緒論は、先に「上田交通」に行くことにする。しかし、「しなの鉄道」と「長野電鉄河東線」との接続が屋代駅でどうしてもうまくいかず、(非常に悔しい1分のずれ)素直にそのあとは長野に向かうことにする。

 そんなことを考えているうちにトンネルが多くなり、いよいよ長野に向けての山越えが始まった。見渡すと雪も多くなっており「やはりこうでなくては」と一人納得する。しばらく車窓を楽しむ。ここでひとつ気になったことがでてきた。それは、「どうしてローカルな地に行くと、かくもマイクロバスの大破、忘却された姿が多いのか」ということ。なぜか「マイクロバス」が多いのである。他のはないのに、マイクロバス。何で何でしよう。

 電車は冠着(かむりき)駅にてしばしの停車。対行電車の遅れ、とのこと。単線ではよくある事であるが、思うにこの先の難所で遅れているものと察しがつく。実は私はこの先を楽しみにしており、いままで朝からのハードスケジュールに、うとうととしていたのが、一気に目が覚めていた。というのも実はこの先、羽尾信号所、姨捨(おばすて)駅、桑ノ原信号所の連続3カ所もスイッチバックが続く篠ノ井線随一の難所が待っているからである。信号所で止まる必要がない電車は駅にしか用がないが、特急などに乗ってしまってはそれも素通りになってしまい、面白くもなんともない。残された貴重なスイッチバック駅にそれでは申し訳ない。実際のところ、私もスイッチバックは久しぶりなので緊張して待ち構える。電車はかなりの高度をもって走っている。ふもとの更埴市が眼下に直接見え、ますます恐怖心を煽る高さだ。姨捨山は平安朝からの歌の名所で、斜面に開かれた岡の一枚一枚に月が映る「田毎(たごと)の月」はその象徴ともいえ、これを見たいがために月齢を選んで秋の夜に旅をする人もいるほどだ。私が見たのは段々に作られた田に積もる雪だが、それでも急斜面に作られた人間の食べるための力の偉大さに圧巻されるものがあった。ここまでして田を作るその信念には山に暮らす人々の厳しさを感じることができた。電車は12時18分、姨捨駅に入線する。ホームには一人もおらず、すぐに発車。電車は静かにバックをし始め、ホームを見上げる程の高さまでさがる。乗客も普段から乗っていて特に反応を示さない人、外に目が釘付けの人、感動して会話が弾む人、さらには必至にメモをとる人(私?)など実に様々な人間像を浮かぴ上がらせた。といっても感動した私の目に映った光景であり、実際はさめたものかもしれないが…。ただ後ろに座った女性グループはかなりのマニアらしく、会話が弾んでいたのが耳に残っている。電車は乗客の思いを全く気にせず、ただまっすぐ坂を下る。しばらく進み、桑ノ原信号所を一気に通過する。何気なく車窓を見ていた私は信号所でスイッチバヅクして待機している貨物をみた。それだけなら特に驚くことではないが、その貨物は「電気機関車3連十ディーゼル機関車1連」の計4連機関車だった。こんな重装備の貨物を初めて目にした自分は、改めて篠ノ井線一の難所に敬意を表したのだった。今思うと、機関車も輸送対象の一つだったのかもしれない。いくらなんでも4連は大げさすぎる。しかし、山を越えてきたばかりの自分にはその姿が当然の如く目に映ってしまつていた。

 

 12時31分、篠ノ井駅に到着。接続上は長野駅までいっても同じ電車に乗り換えるのだが、それではつまらないので篠ノ井駅で降りる。

 寂しい駅。隣には長野行新幹線が走るがもちろん通過。駅には静かにクラシックなメロディーが流れる。「これを旅情というのか。」吹き抜ける風がとまらない。

 12時59分「しなの鉄道115系」が入線。「そうか、この寂しさはしなの鉄道のかもし出す寂しさだったのか。」一人で納得。しかし車内は充分混んでおり少し安心。

 13時04分、屋代駅。首を伸ばして隣の「長電」ホームをみる。木造、それもすごい古い。もともと「長電」は屋代駅から発祥したのだが、いまでは1時間に1本のローカルぶり。完全に中心は長野一須坂にもっていかれてしまった。接続の関係上、ここから長電に乗るのは不可能との緒論がでており、泣く泣く断腸の思いで諦める。次回があればぜひここから乗りたい。

 

 13時26分上田駅に到着。うすら小綺麗な観光駅。幻滅する。歴史の街なのに駅がこんなに近代的では旅情がそがれる。まったく旅人の勝手な意見だが…。長野県ではオリンピックだ、新幹線だ、で多くの古いものが近代化し失われてしまった。それが決して悪いとはいわないが、すこし寂しい気持ちにさせられる。

 13時53分、「7554+7254」の車番を持つ二両編成、元東急車両が発車する。車内で上田交通を想う。上田交通は上田盆地という小さな範囲に「別所線」以外にも「青木線」「西丸子線」「丸子線」「真田・傍陽(さなだ・そえひ)線を走らせていたが、昭和42年2月までに「別所線」以外はみな廃止されている。それら廃止路線を乗り越えて今の「上田交通別所線」があるのだと思うと、それが東急グループの傘下同然となっていようとも(後日、調べてわかったことだが東急グループ」の傘下同然ではなく、完全に傘下であった。今ごろ気づくのも何だが、「上田交通」のマークは「東急」そのままである。つまり東急グループの上田交通。それを知ってしまうと、この「上田交通」の文章に違和感があるかも知れないが、あえて知る前に書いた文章のままにしておきたい。)、健気な努力に強く心に打たれるものがある。そう考えれば、近代化に成功した上田駅に対してローカルの雰囲気がない、などと勝手な文句をつけることもできない。

 電車は高架された線路から下り住宅地に突入する。無人駅が続く。農地が広がる。

 14時10分、下之郷駅。ここには車庫がある。またかつては「西丸子線」の分岐駅でもあった。側線にはスクラップと化している元東急5200系が2両、7000系(東急の車両はわからないが多分そう呼ぶのではないか。)が2編成待機していた。また、中塩岡駅にはモハ5253号が朽ち果てている姿が目に入った。

 八木択駅発車後、電車は40パミールもの斜面を1キロ近く駆け登り、温泉の入り口であり山間部の入り口とも言える別所温泉駅に辿り着く。ここには丸窓電車2両(モハ5150系)が展示してあり資料館となっているが残念ながら現在は閉鎖中。

 別所温泉駅はよく「モダンな駅」と称されるが、今は薄暗く古ぼけた洋風の悲しげな感じが漂い、私はふと去年目にした「日中線」の熱塩駅跡を連想していまい、ますます暗くなってしまった。片道およそ27分と「松本電鉄」とたいして変わらない距離だが、こちらはかなり無理をしているように感じられた。上田は「信州の鎌倉」とよく称され、観光の見どころも多い。そのための路線として重要な役割をになっている「上田交通」だが、近代化を積極的に急ぎ過ぎた感がある。98年10月からはワンマン運転に移行しており、表面上はともかく、内実どの程度厳しいかは空想するしかない。

 14時30分、別所温泉発の帰りの車内で「上田交通別所線」の未来を「東急」の広告がいっぱい貼られた車内でふと考えてしまった。自分のこれから先の旅程も決めずに…。

 

 14時57分、上田駅に帰ってくる。しばし接続待ちをして15時19分「しなの鉄道115系」長野行に乗り込む。「上田交通」の車窓はたいして楽しくないが途中下車すれば史跡がたくさんある。それをゆっくりと見る位の時間は欲しい、と今ごろ悟る。車内から「上田城跡」を望む。白塗りのいんちき臭い復元はしておらず、木の雰囲気が漂う良い城跡だった。一度は見ておくと良いかもしれない。思えば、松本にも国宝の城があった。それなのに私は城を見ていない。昔は城好きだった自分が聞いてあきれる現象だ。少しは観光をする余裕がある目程を組んで旅をしたい。まあ、そうゆう旅は老後にとっておくのが良いかもしれない。

 どうにも「しなの鉄道」には石油用の貨物が側線に停車している駅が多いと見受けられる。広めの側線を持っている駅も異様に多い。信越本線からの名残にせよ、なぜなのか。疑間が残る。

 検札をしていた車掌が女性だった。やるな「しな鉄」。おまけに車内広告がJR。でもこれは第三セクター線。「うんうん、三セクとJRがうまくいっていることは良いことだ。」まあ、「しなの鉄道」のいきさつを考えれば当然か。

 車内から、山を望む。方向を確認してから「そうか、さっきは篠ノ井線であんな高いところを越えてきたのか。よくやるよ。」と勝手に感慨にふける。

 

 15時59分長野駅に到着。「長野電鉄」乗り場へと向かう。16時04分かなり危ない乗り換えだった。乗り込んだ車両のプレートは「東急」昭和46年とあるが、車番は3603。これは「営団3000系」である。「東急」にしろ、「営団」にしろ私には縁がないのでわからないことだし、第一どうでも良いことである。電車は地下ホームから長野の市内を地下鉄状態で3駅進み、地上にでる。この時間は学生が多く、カメラバックをさげた私は隅の方に小さくさって夕方の車窓を楽しむ。

 16時34分、小布施駅に到着する。私はここで降りる。今回はスケジュール的に乗りつぶしはできそうにもない。夜間をおしてなら出来ないこともないが、真っ暗のなか鉄道に乗る意義はない。そう考える人間だから日没勝負なのである。まあ夜間撮影を目指すのなら別間題ではあるが…。

 小布施駅には「ながでん電車の広場」という名で保存車両を展示している区画がある。とりあえずそれを見ようと思ったのだが、いまいち心にくるものがない。私にとっては、その車両に対する愛着がないからかもしれない。いずれにしろ撮影しにくい展示方法であった。参考までに展示車爾を列記しておく。電化当時に新造したデハニ201(大正15年(1926)汽車会社製)、モハ604(昭和2年(1927)川崎造船所製)電気機関車ED502(廃車時はED5002、昭和2年目立製作所製)、戦後最初の新車であるモハ1003(昭和23年日本車両製)の4両が展示してある。

 16時50分、上り電車に乗り、16時55分須坂願で降りる。須坂には車庫があり、本数も多い区間なので容易に途中下車が出来るので降りてみた訳である。側線には「松電」では現役で走っている、丸くて愛敬のある「元東急5000系」(長電では2500系と表記)が8編成1両、「0系」2編成1両、特急用の「2000系j、現役唯一の電気機関車「ED5001」、また「1500系」が1両など歴代の長電電車車両のオンパレードといった趣。車庫には「元営団3000系」(長電では3500系)が停車。なかには無塗装のものもあった。貴重なものが側線に点在していたのに残念なのは日没ちかく、露出調整をせずに写真を撮ってしまったので、写真の出来がよろしくない、ということ。時間とフィルムがなかったもので…。

 17時11分、長野駅へと向かう。17時30分長野駅に到着する。早いもので、もう真っ暗。非常に危ない時間配分ではあったが、我ながらうまい具合に回れたものである。

 

 なんとなく足はJR長野駅に自然と向かっていた。改札が何やら騒々しいので首を突っ込んでみると(無線傍受ともいう)「篠ノ井線が15時過ぎ(時間不明?)に「ささやま踏切」(漢字・記億ともに不明確?)にて車と接触。1時間20分後に運転再開。17時現在、ダイヤは大幅な乱れ」との情報を得る。「げっ一、昼間乗ってたよ。篠ノ井線…。いや一、運がいい。」と感謝する。実際のところは事故現場にも直面したかった、という気持ちも多少はあるが、そうゆうことはカメラを持っている暇な時にして欲しい。今回は素直に喜ぼう。

 適当なところで飯を喰いだめ、予約しておいたホテルに向かう。駅前をうろちょろ探すが、困ったことに駅の真正面の真ん前という素晴らしい立地条件にそのホテルはあった。探していた自分がまるで馬鹿みたいだ。

 6時30分ごろ、ホテルにチェックインする。駅前で税込6300円のビジネスホテル。オリンピック後の長野では安いほうである。部屋に入る。荷物を置いて最初にすることは我が愛機「アルインコDJ-X1O」を持って部屋の中をうろうろ。何をしているかというと「盗聴機」探し。どこにいってもこれをして安全を確認しないと安心できない人間なので…。残念ながら?「盗聴機」は発見できず。続いてワイヤーアンテナを張り短波ラジオを受信しながらもう一台の受信機「マランツC710」で消防救急無線を聴く。こんなのばかり持っているから荷物が増えるのである。まあこれでも手持ちは少ないほうでメインは直接新潟に郵送済みなのだが…。

 テレビで長野ローカルニュースを見ながら明日の予定をたて、特に何事もない交信を受信し、「まったく、一日でよく回ったな。これはきっと、後日に悪影響をおよぼすぞ。」などと不吉な思いをよぎらせつつ、明日に備えることとなった。

 

 

JR中央線・大八回し」 

 中央本線が計画されたとき、諏訪湖周辺の諏訪盆地から塩尻、松本に抜けるためにどのようなルートをとるべきか、が問題になった。明治25年に公布された鉄道敷設法では、その第一期線に中央線をあげていたが、この線路の経過地点についてはこれを受けるかたちで、地域の人々がたくさんの陳情書を政府、帝国議会に提出した。ここより南の伊那地方やはては三河地方まで迂回する案もあった。また飯田まで南下して木曾福島へ抜けるルートもでたが、これでは安曇平にでることが出来なくなってしまう。

 実際のところは、この区間については標高999メートルの塩尻峠の下を、トンネルを掘ってくぐるか、岡谷から南下して辰野を迂回するかのどちらか、の案が有力であった。当時の建設技術では塩尻峠のトンネル掘削は不可能であり、必然的に辰野に迂回する線路しかなかった。このルートは地元出身の政友会代議士伊藤大八がルート決定に運動したことで俗に「大八まわり」と呼ばれ政治路線の典型のようにみられるが、トンネルを掘れないとなると、このルートは選択として必然性を持っていたと思われる。辰野迂回ルートは岡谷一塩尻間の距離が27.24キロ、最急勾配が25パミール、最小曲線半径300メートル。特に急勾配区間が長いのが特徴である。

 それに対して昭和58年7月5目に開通した塩嶺トンネルルートは約11.7キロ、最急勾配は20パミールである。塩嶺トンネルの長さは5994メートル、トンネル内の最急勾配は7パミール、と辰野ルートと対照的である。さらにこのトンネルは複線で輸送力も大きい。塩嶺トンネルは中央大地溝帯と中央構造線が交錯する複雑な地層ではあるが、技術力の進歩がこの難工事を成功させたのである。

 

 

「松本電気鉄道」

 松本一新島々間、13駅14.4キロ。軌間は1067ミリ。新島々駅は北アルプス上高地の玄関口にあたる。

 大正9年3月筑摩鉄道株式会社が設立され、同10年10月2目松本一新村間、同11年9月26目島々駅までの15.7キロが開業。島々線と称した。

 大正11年筑摩電気鉄道、昭和7年11月松本電気鉄道と改称。同27年トロリーポール式をパンタグラフ式に改造。昭和30年島々線を上高地線と改称する。

 昭和42年には名古屋から国鉄臨時急行こまくさ号が乗り入れ開始。昭和48年12月貨物輸送の廃止、こまくさ号の乗り入れも打ち切りする。現在はJRと線路はつながっていない。

 昭和58年9月28目に台風10号による土砂崩れがおこり、新島々一島々間1.3キロは同目から不通。同60年1月1目付で廃止された。昭和61年、ワンマン化。750Vから1500V昇圧と同時に元東急5000系に統一。現在は、2両編成3本と両運転台車が2両在籍。他に除雪用として大正15年米国製のED301が残る。このほか、松本一浅間温泉間5.2キロも営業したが路面軌道であり昭和39年3月に廃止されている。

 

 

「スイッチバックをする理由」

 なぜ、スイッチバックというものをするのか?それを説明したいと思う。25パミール(1000分の25)以上の勾配の途中では列車を安全に停車させる保障ができない。列車を安全に停車させるには水平、またはそれに近い状態でないといけない。そこで列車を水平の条件をもった線路に誘導して、そこに停車場をつくる。その停車する列車は、一回後退してまた前進するという手順が必要になってくる。

現在は輸送の合理化、列車の性能のアップなどによってこの方式はしだいに姿を消している。一つの鉄道運用方式の遺産として、できることなら残して欲しいものだ。

 

 

「しなの鉄道」

 残念ながら、第三セクターであるしなの鉄道はまだ新しく書くことがない。資料もない。信越本線時代からだと疲れる。しかたがないので書き方の形式を変えたい。しなの鉄道は平成9年にJRから転換された鉄道である。長野新幹線の開通により清算がとれなくなった軽井沢一篠ノ井間を第三セクター化し、軽井沢一横川間の通称碓井峠を廃止したことはつい最近のことであり、記憶に残っている人も多いだろう。

 私の手元になぜかしなの鉄道の開業から半年まで(H9,10〜H10,3)の営業成績データがあるので参考までにまとめてみたい。営業費は18億28百万円。内訳は人件費7億84百万、経費6億92百万、緒税6百万、減価償却費3億46百万。それに対して営業収益は13億91百万円。内訳は普通運賃収入が7億45百万、定期運賃収入が4億50百万、その他1億96百万。営業損益4億37百万円。輸送人員は647万人、一目平均35500人となっている。開業当時は赤字ではあるが、それでもかなりの善戦ぶりであると思われる。

 ただ、もと信越本線という性格上か、かなり異色の第三セクター線である、と感じてしまうのは気のせいだろうか。

 

 

「上田交通別所線」

 上田交通は現在、上田一別所温泉間15駅11.6キロが現存している。というのも他の路線はみな廃止されているからだ。大正9年1月、上田温泉軌道杜が設立。翌年、三好町一青木間と途中の上田原一別所温泉にいたる2本の鉄道が開通。その後、路線を広げつつ「上田電鉄」と改称。大正7年に開業した丸子鉄道と戦中に合併し「上田丸子電鉄」となった。全盛期には北東線(真田線・傍陽線)・丸子線・依田窪線・青木線・別所線、上岡市から放射状に営業キロ48キロにも及んだ。これは地方を拠点にしたローカル線としては驚異的なことである。しかし昭和30年代からの急速なモータリゼーション化され、次々に路線が廃止されていく。昭和47年2月にはついに別所線11.6キロのみとなってしまい、社名も「上田交通」と改称。「上田交通別所温泉線」となった。

 別所温泉線はその名の通り、別所温泉が終着であり、沿線住民の支持もあり廃線を免れることができた。実際は「東急」の力もあるのだろうが…。

 

 

「長野電鉄」

長野電鉄は長野線、河東線、山ノ内線の3路線から成立している。 

 大正9年5月河東鉄道社が設立され、同11年6月10目屋代一須坂間、同12年3月26目須坂一信州中野間、同14年7月2目信州中野一木島間の営業を開始。この路線は佐久鉄道(JR小海線)をもとに太平洋岸と日本海岸を結ぶ構想の一部として建設されたものである。

 大正12年11月長野電気鉄道社が設立され、同15年6月28目権堂一須坂間が開通。同年9月長野電気鉄道と河東鉄道と合併して長野電鉄となる。

 昭和2年には信州中野一湯田中間の山ノ内線、同3年長野一権堂間が開通した。 

 昭和56年3月、長野から善光寺下の先の開口部までの2.3キロが地下化され、地方都市には珍しい地下鉄となった。正式には3路線であるが運行上は長野一須坂一信州中野の各駅停車15分ヘッドの運行。ほかに長野一木島間の運行、木島一信州中野の折り返し運転、通称木島線が1時間に1本程度。長野一湯田中直通運行に、信州中野一湯田中折り返し運行が30分に1本程度。屋代一須坂間の折り返し運行、通称屋代線も一時間に1本程度となっている。(かなりややこしいが本線が長野一湯田中。屋代一須坂、木島一信州中野は1時間に1本程度の支線だと考えると良い。)

 木島には昭和30年代から40年代にかけて上野、名古屋からDC急行が乗り入れていたが飯山線の輸送改善により打ち切り。

 湯田中には昭和57年、上野からの直通169系急行「志賀」も乗り入れていたなど賑やかな時代もあったが、現在はJR線、もといしなの鉄道とはつながっていない。

 山ノ内線は急勾配線区として有名で信州中野の標高が370メートル、湯田中が600メートル、230メートルの標高差を7.8キロで駆けのぼる。信州中野をでると25パミールから33パミールとなり、次の中野松川駅をでると33から40パミールとなる。半径200,240メートルのカーブを繰り返して、40パミールを何度か駆け抜けて湯田中に到着する。今回は乗れなかったが、機会があったらぜひとも乗りたいと思う路線である。

 長野電鉄鉄道路線総キロは70.5キロ、駅数43駅。電気機関車1両、電車51両(平成9年)。

 

            

 

2月9日火曜日

 朝、快適な気分で目覚める。窓から外を見る。「うん、いい眺めだ。」駅を見下す風景に満足する。

 予定では「長電」から「JR飯山線」につなごうかとも思ったが、何が起きるかわからないので素直に「JR飯山線」一本で新潟入りをすることにする。

 今は8時前。早々とホテルを退去する。駅前は通勤、通学者で混雑する。でも私は旅人。ひとり優越感を味わう。小学生も通学中。まったくごくろうさまです。そんなことを考えながら歩いていると、駅前ロータリーに見たくない車が待機しているのを発見してしまった。その車には「日本K産党」と書かれた文字が踊っていた。「げっ、朝っぱらからアジ演説かよ。」案の定、演説が始まり耳を傾ける自分がそこにいた。ついでにワイヤレスマイクの周波数も確認。まったく悲しい習性であった。

 アジ演説も程々に改札口前広場に向かうと、なぜか通路の真ん中に「鉄道警察」のお巡りさんが仁王立ちしていた。「いったい何、なんなんだ、この駅は…。」まさか「K産党」の為でもあるまいが心配になってきた。ちょっと道でも聞こうかな、とも思ったが、彼の体からは近づき難いオーラを放っていたため、後ろから時刻表をめくる振りをして観察するだけにしておいた。

 しばらくするとお巡りさんは2人に増え、いい加減時刻表をめくりつつの観察にもあきた私は駅前で朝食をとることにした。軽く食べた後、相変わらず2人で仁王立ちしているお巡りさんの前を横切り待合室でくつろぐ。

 9時前に駅アナウンスで「○×村からお越しの△口様。おつれ様が遅れますので先にタクシーに乗って学校にいっていて下さい。」などと流れる。携帯電話が普及している今、連絡手段として携帯電話を持っていない学生も偉いが、おもいっきり私的の伝言をアナウンスする駅員さんの暖かさがつたわり、ほのぼのした雰囲気にうれしくなった。

 お巡りさんもいつの間にかいなくなり、駅をぶらぶらしながら南口のトイレに入る。そこではなぜか「か一さんが夜なべをして、てぶく一ろ編んでくれた…」のメロディーが寂しげに、だが訴えるかのようになごやかに流れていた。長野駅という駅は、どうも旅情を狙い過ぎるきらいがある。私はどうにも落ち着かなくなって、時間はまだあるがホームに逃げることにした。後日調べたことだが、長野は「かあさんの歌」「ふるさと」「春

の小川」「朧月夜」などの作詞家で知られる高野辰之の出身地であった。だからといってトイレにまで曲を流さないで欲しいものである。

 ホームに鳩がいる。ふと思い立って、「鳩と電車」というアングルを狙ってみる。人間が近付いても逃げも隠れもせず、いい度胸、もといず一ず一しい奴ではある。が鳩を追いかけ回して誘導している自分が傍から見るとかなりばかっぽい、もしくは「鳩を撮り続けて何十年」という嶋を極めた人間にしか見えず、それほどの熱意もなかったので諦めた。今思うといい写真がとれていたかも知れない。

 遠くから小さなライトが近づいてくる。いやな予感が当たり「キハ110型」、それもたった1両でやってきた。「おいおい、座れなかったら地獄だぞ。」停車位置が予想とはかなり違うところに来た。私は「せめて2両」とみこんでいたものだから当然ずれてしまった。車内に入り込んだ瞬間、目は驚きをあらわす。いままで「110型」には何度か乗ってきたが、このタイプの内装は初めてだったからだ。横同一方向をむいた椅子が二列並んでいるのである。なぜこうなっているのかは知らないが、なかなか奇抜である。客層は一般の近距離利用者、少数のスキーヤー、さらに少数の乗りつぶし派(私)。それでもやはりいっぱいになり、立ち客もでる。飯山線で新潟に向かう奴はまれである。なぜなら信越本線経由の方が圧倒的に速い。第一、長野から越後川口まで乗り換えなしで走っているのが一本しかない。それがこれから乗ろうとしている電車である。(電気ではないのでディーゼル車、もしくは気動車ではあるが便宜上電車と呼ぶ。)

 

 10時02分、出発…のはずが出発しない。ワンマンの運転手は特に動じず10時05分出発。ローカル線には良くあることだが、ちょっと遅れただけでまるで鬼の首を獲ったかのように鉄道無線を受信してしまう自分が悲しい。当然、交信などはないのだが。それにしても、同一方向横二列の椅子は落ち着かない。窓に面した長椅子。それが進行方向に対して横滑り。やっぱり落ち着けない。

 思いっきりスピードがまちまちな「110型」。ディーゼルエンジンが止まったり震えたりまったく忙しいことである。非常に落ち着きがないのだが汽車旅はやはり「ディーゼルで!」と思わず感じてしまう、いい雰囲気。

 飯山線は千曲川(新潟に入ると信濃川)にそって走る。「そうか、こうゆう変則的な椅子の並びは乗客に景色を楽しんでもらうためなのか。」すべての椅子が千曲川に向かっている。というわけで、ここはかってに「やるな、飯山線」と解釈しておくことにしておく。天気も晴天。太陽が眩しいばかりに、いや凄く眩しいのだがカーテンを閉めてはせっかくの車窓が台無しである。ここは「太陽と意地の張り合い」ということで景色を望む。太陽

に照らされて銀色に輝く雪。穏やかに蛇行する千曲川。点在する民家。雪の中から顔を出すホーム、純白の世界を引き離すトンネル…。う一ん、文学的だ。やはり多少の危険をおかしても「冬の飯山線」に乗るべきである。天気によっては本当に命懸けで、目的地につけるかわからない「飯山線」だが、幸い今は、衝撃的な青空。天に恵まれた幸運を祈ろうじゃないか…。

 10時47分、飯山駅。ここから千曲川の対岸2キロのところに「長野電鉄」木島駅がある。当初、木島駅から歩こうかとも思ったがとうてい真冬にやることではなく却下。実行していたら地獄を見ていただろう。道路は車の為に除雪されているが、決して歩行者の為ではないのでびしょびしょになってしまう。飯山駅の積雪を目測で計ってみると80センチから120センチはありそうな感じ。側線も雪のなかに埋まっており、冬期は用をなしていない。車内から見物しているだけだと「芸術的」風景ではあるが一歩外に出るときっとそんなことを考える余裕すらなく、寒さにあらゆる感覚がやられてしまうだろう。

 

 飯山駅には「鐘」がある。いつでも、だれでも突いてよい鐘なのだが、飯山駅では一分停車。乗客は知ってか知らずか「ちょっと降りて鐘を突いてこよう。」などという熱意は誰も持っていなかった。第一、この寒い中、雪をかきわけてまで行く気はおこさない。人によっては突きたいがために汽車から飛び出したらしいが…。

 11時01分、戸狩野沢温泉駅。ほとんどの乗客が降りる。さすが沿線随一の観光地である。急に車内が寂しくなる。私にとってはいろいろやり易くなってよかったのだが。私はカメラバックを持って一番後ろに行く。一脚を取り出し揺れる車内で体を固定して写真を撮ろうと思ったのだ。最初こんなことをやる予定はなかったのだが、千曲川沿いの風景のあまりの美しさに感動したおじさん、おぱさん達がコンパクトカメラで窓の外の風景を撮っているのを見てしまったからだ。それも何人もの人が…。ここで一眼レフカメラを持っている私が撮らなくては申し訳がない、という対抗意識が芽生えてしまった訳である。おじさんたちは内心思っていただろう。「この糞がきが生意気な」と…。

 専門的なことを言わせてもらえば、電車の中で外の景色を撮るにはすこし技がいる。例えば、何げに撮ってるおじさんの撮り方では、窓が太陽や電灯に反射して車内が映り込んでしまうだろう。そこで、ぴったりと密着させて撮らなくてはいけない。(フィルターを使って反射を消すというのもある。)さらに雪の撮影ともなるとますます技術がいる。どうしても書きたいことがあるので続けるが、私はうっかりして今回の旅でこれを失敗してしまったのだ。現像された写真を見る前から「もしかしたら…。」という不安はあったのだが、案の定失敗していた。というのも飯山線の車内で撮影したときは晴天。雪が眩しいほどだ。こうゆう時は画面が明るくなり過ぎるのでプラス側に露出補正させると良い。おかげでいい写真が撮れたのだが、問題はこの後で新潟交通や蒲原鉄道を撮影した時である。この時は曇り空。こうゆう時は暗くなるので逆にマイナス側に露出補正させなければならないのだが、うっかり設定を変えるのを忘れてしまい、さらに絞りが開放側になっていたのでそれはもうめちゃくちゃになった。機械任せにする方法もあるのだが、判断ミスをすることもあるのであえて露出優先にしていたのだがこれが裏目に出てしまったようだ。いずれにしろ気づくまで時間がかかってしまったのが痛い。余談ついでにもうひとつ撮影について。撮影方法にわざとぶらして流れるように撮る撮り方がある。戦闘機などをこの方法で撮ると迫力がでてよいのだが、この撮り方は難しい。一歩間違うとただの手ぶれになってしまう。私は電車でこの方法を試みようと何度か挑戦してみたのだが、つい癖で戦闘機を撮るときの動かし方をしてしまった。電車と戦闘機の速さの違いにどうしても合わせることができず、とんでもない写真が多くなってしまった。この撮り方は非常に成功率が低いのが困り者である。

 

 11時23分、信濃白鳥駅。雪に埋もれた寂しい駅。なにげなく一番後ろの窓から眺めていると、ホームに「犬」がいた。「なぜ?」と思うが同時に、ファインダーを覗き一枚撮る。当然乗降客はおらず、発車する。動いてからわかったことだが、そこから幾分も離れていないところにおぱあさんが立っていた。おぱあさんが動き始めた電車に深々と御辞儀をしているのが目に映る。おばあさんが顔をあげ、犬もこちらを見つめる。一瞬時間が凍り付く。我を取り戻し慌てて礼を返す。おぱあさんの思いが伝わってきた。「こんな雪深い山奥まで、わざわざご苦労様です。事故を起こさないように安全運転で気をつけて下さい。」と電車に訴えているのが…。だからこそ私は衝撃をうけ「おばあさん、ありがとう。飯山線のために本当にありがとう。」やるせない気持ちでいっぱいになって礼を返したのだ。信濃白鳥駅は委託駅であるから、きっと駅の管理をしている人なのだろう。あのおばあさんは、毎日時間になると犬とともにホームで電車を見送り、安全を見守ってきたのだろうか。それこそ豪雪地帯飯山線に電車が走ってくる限り…。私が勝手に空想の世界で目を潤ませている間にも電車は豪雪地帯を走り続ける。どうにも私は情に弱い人間である。今回の旅では感動しっぱなしである。だからこそ新たな発見が生まれるのだが…。

 11時36分、森宮野原駅に入線。実はこの駅は、長野県森集落と新潟県宮野原集落との合成駅名である。つまり「もりみや・のはら」ではなく「もり・みやのはら」である。

 この国境の駅で「キハ110」の二連とすれ違う。こっちは一連だというのに…。飯山線沿線は豪雪地帯として有名だが、なかでも昭和20年2月12日に日本最高積雪地点「7.85M」の記録をもっており、駅構内にも記念する標柱が立っている。

 ここから先はいよいよ新潟県ではある。しかし道路と違って鉄道に県境表示はないのだが…。辺りは雪の壁である。道路も幹線以外はみな雪に埋もれており、踏切の警報機はあるが道がない、という状態。

 途中、やはり豪雪で有名な津南を通り電車は12時14分、十日町駅に入線する。しばらくの停車。当駅にてやっと運転手を交換する。「2時間もの雪中運転ご苦労様」と見送る。

 外を見ると、やたらと立派な高架線が交差しているのが目に入った。「あれ、ここに新幹線通っていたっけ」と一瞬考えてしまったぐらいそれは立派だった。そこになにやらちっこいのがやってきた。それは高架に似つかわしくない一両の電車だった。「う一ん、北越北線侮り難し…」過去の名称が頭をよぎり形式的な敬意を「ほくほく線」という北越急行に表した。悲惨な末路をおくらないで欲しい、という思いとともに…。

 十日町まで来てしまえば山越えも終わり、あとは平野を抜けて終点まで気楽なものになってしまった。それと同時に雪の白さにやられ、いい加減白銀の世界にも飽きてきた。今は12時過ぎ、ぽかぽかとした日差し、中途半端な暖房に眠くならないほうがおかしい。張り詰めた緊張も一気にとけ、私はしばしの睡眠へ…。 

 

 12時41分、越後川口駅到着。長野からの107キロ、2時間40分にも及ぶ雪の飯山線の旅はここに終わった。今後よほどの事がない限り、雪の飯山線に乗ることはないであろう、という思いを抱き降りる。凍てつく寒さ、そんな私の予想を否定する太陽の日差し。厳冬装備で覚悟を決めていた私は拍子抜けしてしまった。「なんでこんなに晴れてんだ。」どんより曇って毎日が雪、という雪国の固定観念はここに崩壊した。

 越後線ホームに行く。さっそく電車が入線。「おっ、接続がいいな。」と思っていると残念ながら上り越後湯沢行。時刻表をみると30分待たないと下り長岡行は来ないようだ。そんなことはあらかじめ調べてあったはずなのだが…。 

 いつの間にか「ホームで待つは我一人」になっていた。数名の飯山線客はみな上り電車に乗ってしまったからだ。寂しい、何もない駅で待つこと30分。13時13分、1分遅れて長岡行が入線。やって来たのは、白地に緑ラインの「新潟色115系」6両編成。走り出して唐突に「電車はやっぱり速い」というごく当たり前の事を改めて実感する。

 

 13時34分、長岡駅に到着。足は何となく、しかし強い力によって導かれるように長岡の街を歩く。去年の夏に初めて訪間、今回2回目の長岡となる。去年は長岡が産んだ郷土の個性、「河合継之助」「山本五十六」の二人に関係する史跡を巡った。

 私の足は雪の街を迷いもせずに、自分でも驚く正確さで街を歩いていた。必然的にある場所に立ち、そこで歩みを止める。「山本記念公園」であつた。ここは山本の生家跡であり、現在は復元された小さな家が建っている。山本戦死後(暗殺?)新潟県や長岡市の有志が集まり、乃木・東郷神社のように長岡に「山本神杜」の建立を希望し中央各方面に折衝、当時の世相から当然出来るものと思われたが、神格化に反対する井上成美や葬儀委員長を務めた米内光政、級友の堀悌吉、特に米内は断固として反対。結局、予定地には「記念公園」が造られた、というわけである。困ったことに公園内は雪に埋もれていた。道路は除雪され綺麗になっているのに公園内は積雪。これでは公園の意味をなしていなかった。私は意をきめて雪中行軍を開始する。案の定、はまる。それもずぼずぼっと。そんな中突き進み写真を撮る。実は公園内にはもう一つ「胸像」がいかめしく立っているのだが、あまり喜ばしいものではない。

 公園を脱し、次の目的地に向かう。去年の夏、長岡の街をぶらぶらと歩いていたら偶然「山本五十六記念館」の工事をしている場面に遭遇。看板をみると「12月完成」と書かれていたのでそれを見学するためでもあった。こちらも迷わずに現場に到着。しかし、なにか様子がおかしい。建物はできあがっているのだが、どうやら中身がないようだ。困ったことに「建物の完成」は予定どおり、内装はこれから、という状態。非常にたちが悪い。私はそれこそがっくりと肩を落とし立ち去った。

 

 14時42分、「115系」の4両編成は長岡を発車する。周遊キップのゾーン内は特急だろうが新幹線だろうが乗り放題なのだが、こういった時に限って時間があわず、緒局鈍行に乗るはめになってしまった。(これは事後論だがこのあとも特急に乗ることができず、結局ゾーン内も普通電車で乗り通してしまった。なんか18キップの影響が大きいようだ。)

 みごとに帰宅する学生の時間と重なり、喘ぐこと一時間。15時51分、無事に新津駅に到着。新津は昔、鉄道の街として栄えていた。いまでも新津製作所という鉄道工場があるのだが、新幹線が通せなかった街の怨念が広い側線に漂っているようである。

 17時13分「羽越本線115系」新発田行が発車。「115系」乗りとしての目がこえてしまった私はどうしても車内内装の比較をしてしまったのだが、今回の「115系」はとてつもなく綺麗だった。「やれば綺麗じゃない」とおおいに感心。

 水原駅に17時24分に到着。改札にてゾーン券を見せる。駅員さんは私に「ありがとうございます」と御辞儀する。「うんうん、周遊キップで羽越線のはずれに(羽越線は新発田から白新線経由になってしまうのが多く、新津一新発田は支線のようなもの?)来てやったんだ。おおいに感謝してくれ。」と傲慢な気持ちになる。なぜこの駅かというと、この町にある祖父母の家にお世話になることになっているからであり、そうでなかったらこんな接続の悪い所にはこないだろう。

 

 

JR飯山線」 

 全長96.7キロ、駅数31。千曲川、信濃川沿いを走り、屈指の豪雪地帯を通過している。

 飯山線はかつて鉄道敷設に反対して時勢から取り残された飯山盆地の悲願を背景に、私鉄で敷設された。大正6年8月に飯山鉄道会社が設立されたが、第一次大戦の影響による物価騰貴で工事が停滞。信越電力が水力発電所の工事鉄道に利用するため参入。大正10年10月飯山駅まで開通。鉄道省の信濃川発電所の資材輸送にも貢献。以後、同12年7月桑名川駅、同年12月西大滝駅、同14年11月森宮野原駅まで開通。昭和2年には国鉄によって越後川ロ−十日町間が、国鉄十日町線として開通。飯山鉄道は昭和4年9月に十日町まで全通した。

 昭和19年6月1日、飯山鉄道全線が国鉄に買収。ブナ材を木製飛行機の材料に使用するために周辺を開発するのも、買収目的のひとつであった。

 かつては冬期は運休するのが常であったが、現在は積雪時の運行確保に懸命の努カがなされている。

 

 

「長岡」

 別に長岡についてどうのこうのと説明する気はない。ただ長岡の町並みは城下町の雰囲気が漂っていて結構気に入っている。それもあからさまに保存している、例えぱ川越みたいな仰々しさもなくて落ち着ける。(城跡は長岡の駅のあるところ。爆撃をうけて跡形もない。) 

 長岡といえば「北越戊辰戦争長岡藩軍事総督河合継之助秋義」と「大日本帝國海軍連合艦隊司令長官山本五十六」という二人の偉大な個性がある。長岡には彼らの生きざまがつまっている街であり、伝統がある。

 武装中立を唱え、ガトリング機関砲を擁し、新政府軍と決裂し戦となると、一度は奪われた城を気カで奪い返し、再起を期して逃れた会津塩沢の地で戦病死した河合継之助。

 開戦に反対し、海軍航空隊を育て、いざ戦となると自ら連合艦隊司令長官として日米戦を指揮し、最後は南海の空に散った山本五十六。

 私はそんな彼らの生きざまが好きだ。そして長岡の街は特別な空気を産む。そういえば陸軍の元凶「山県狂介(有朋)」を長岡で打ち破ったのも河合…。 

 

 

「新津をめぐる鉄道」

 新津は鉄道の街だった。磐越西線をはさんで東の郡山、西の新津は双壁であった。が、新津は新幹線のルートから外れてしまったのが衰退の始まりだった。

 地図をみればわかる通り、今でも新津は信越本線、羽越本線、磐越西線が十字に交わっている。また機関区や、電務区などの現場機関も多数設置された。しかし上越新幹線は長岡から燕三条、そしてはるか北を通ってまっすぐ新潟に向かっている。というのも信越本線でまっすぐに日本海を北上しようとするとどうしてもスイッチバックをしなければならない。それに対して上越新幹線は越後線と同方向から進入することによって線路配置を簡単にしている。そのため新津ははずされてしまったことになる。

 スイッチバックをせずに直通させる方法として白新線から越後線を経由して柏崎まで向かうという手もあるが当然途中の新津、長岡などを無視しなくてはならず、また間題の越後線は単線であり、急普講で電化させたという経緯から架線が通常とは違う張り方であるという点から、とうてい信越本線経由となり、新潟でのスイッチバヅクとなってしまう。おかげで新津、長岡は安泰であるのだが…。

 伝統ある鉄道の街として「新津鉄工所」が幾多の車両を造り、そしてC57、伝統のSL貴婦人「ばんだい物語」を走らすことができる。これだけでも往年の恨みは拭われ、鉄道の街としての面目がたつのではないか、と思う。

 

 

 

2月10日水曜日

 遺憾ながら中休みとする。というのも祖父母にお世話になるのに、毎日毎日出歩くのも悪いからである。

 一日、祖父母に付き合う。磐越西線沿線を車で走つたのが唯一の収穫だった。阿賀野川沿いを突き進む線路に水害時に運休になる理由を理解することができた。こんなところを4月から「SL」が定期運転されるのだが大丈夫なのだろうか。まあ昔はこの線路を走っていたのだから心配はないが…。 

 

 

「磐越西線に蒸気機関車」

 すでにニュースでもたびたび報じられているので知っている方も多いだろう。新津の小学校に静態保存されていたC57180が再び、新津一会津若松間を走る、という。正直言って自分はSLを知らない。わずかに秩父鉄道C58を一瞥したことがあるだけである。そんな自分でもなじみある新津に鉄道の話題があることは非常に喜ばしいことであり、夏にはSLを見に行く、という目標ができた。いずれにしろ楽しみなことである。

 

 

 

2月11日木曜日 紀元節

 今日は「新潟交通」にすべてを委ねるつもり。なぜなら休日ダイヤは「一日フリー乗車券」が発売されているからだ。我ながらうまいタイミングだ、と感心する。しかし平日は2両連結で走ったりしてまた良いのだが…。 

 ここで一つ注記。廃止される「新潟交通」「蒲原鉄道」についてはこれから様々な文が書かれると思われるが、私はただ感じた事を記したいと思う。

 朝、水原駅から乗り継いで「越後線」関屋駅についたのが9時15分。川沿いを歩いて東関屋駅へと向かう。十分ほど歩くと洋風のしゃれた駅舎が目に見えて来る。平成4年4月1目に竣工した駅舎であるが、その役目もすでに「バスターミナル」へと変わろうとしている。

 「フリー乗車券」を買う。1030円、良心的である。そのままホームの見学を申し出る。時間的にはまだ早いのだが、ただホームで過ごす時間を大切にしたかった。

 9時54分、925列車が入線。モハ11である。そのまま、折り返し10時01分発白根行926列車となり乗客を乗せる。困ったことに10数名の乗客のうち大半が「乗りに来た人」であった。前部では家族づれで来た客がビデオを備え付け、また別の客がおしかけ、前はかなり混雑していた。私は後ろの座席に座り、ゆっくりと発車を待つ。定刻になり電車はゆっくりと発車する。

 車中で想う。まるで瀕死の重病人をいたぶりにきた客の多さを。私は静かに、今見ている車窓と別れを階しむように外を見る。電車は確実に停車していく。撮影客も明確な意図をもって各々散っていく。それこそ沿線にたかるハイエナのように…。私はただ乗りたいだけ。撮影は二の次にして、ごく普通になにも動揺する事無く最後の目まで走り続ける電車に敬意を表す。

 木造の古い駅舎が続く。廃止されたら沿線はどうなるのか、思いをはせる。そのまま朽ち果てていくのか。それとも撤去されるのか。そんな暗いことばかりが浮かび、消えていく。どうしても気分はやるせないものとなってしまう。もし撤去費用も借しむ会社だったら電車線の霊は浮かばれないだろう。

 

 10時34分。堤防にそって静かに走り続けた「モハ11」は白根駅に入線。乗客を降ろし、番線をかえ「東関屋」行になる。終点月潟行は11時28分と1時間近く待たされる。どうやらそのまま乗ってきた折り返し電車に乗る人、開業以来の暗く狭い待合室で電車を待つ人、と二通りに別れたようだ。私はそのどちらにも属するのを拒み、白根駅周辺を見物した後、一人月潟方面へと堤防の上を線路に沿って歩くことにした。時間は11時45分。はたしてどこまで歩けるか、である。

 白根−千日は距離にして800メートル、千日−曲は900メートル。合わせて1.7キロの距離を線路と川を見ながら堤防の上を20分ぐらいで歩く。残りの曲−月潟は2.5キロありいささか辛いものがあるので曲駅で電車を待つことにした。

 曲駅には何もない。いや駅ではなく停留所というのだろう。当然無人、自販機すら置いてない。ここにはさすがにマニアの方はおらず、一人廃止線の気持ちを思いやるには絶好の環境だ。冷たい風が吹く中、無情感に浸っていると力強いモーター音が響いてきた。こんな力強い音がでるのか、と私は衝撃をうけた。何もない停留所には強烈な印象を与えてくれた。

 11時31分「モハ21」に乗り込み、月潟駅へと向かう。車内を見ると案の定、先ほど一緒だった方々が見受けられる。私は彼らよりも時間を有効に使った、という満足感にかってに浸ることにした。電車はあっという間に11時35分、月潟駅にと到着する。そのまま折り返し11時45分東関屋行となるため、大忙しで周辺を駆けずりまわり写真を撮る。

 折り返し東関屋へと向かう。12時07分、風格のある木造駅舎の前に降りる。そこは木場駅である。「この駅で降りたい」と往路の時に強く感じてしまったからだ。木造の古い駅本屋と無骨なホーム、錆付くレールに黒ずんだバラスト。これらは何を訴えているのか。私はただ廃止され、人々の記憶の隅に忘れさられる「新潟交通電鉄線」に何もできることがない。何ともいえぬ気持ちになり、ただ駅舎に深々と頭を垂れるだけだった。

 雪がぱらつく。徐々に強くなりそれは本格的なものになった。電車が来るまではまだ10分ぐらいあった。私はカメラを守り、ホームにたたずむ。見ると踏切の撮影ポイントに二人のマニアがいた。カメラ撮影時の暗黙事項として撮影の邪魔にならないように心がけ電車を待つ。

 12時48分。雪の中、先に月潟行「モハ21」が入線。続いて東関屋行が入線。撮影後、慌てて飛び込む。また「モハ11」だった。実は日中は「モハ11」と「モハ21」が行ったり来たりしている。

 車中で想う。新潟の鉄道には雪が似合う。緑と黄のツートンカラーに雪のコントラストの美しさが…。

 

 

「新潟交通」

 中ノロ川沿岸の主要交通機関はかつて川蒸気船であった。昭和2年、大河津分水の可動堰が決壊し信濃川の水位低下により川蒸気船の運行が不通となったため、同4年6月30目、中ノロ電気鉄道株式会社が発足。同7年新潟電鉄株式会社に杜名を改称し工事に着手。

 昭和8年4月1日、東関屋−白根間17.4キロ(1500V)が地方鉄道線として開通。当時は東関屋・平島・焼鮒・越後大野・木場・板井・吉江・味方・白根の9駅だった。同年7月28日県庁前−東関屋間2.2キロが併用軌道、O.4キロが鉄道線として開通(600V,1500V昇圧はS20,8,1)した。同年8月15日、白根−燕間、11.9キロ、月潟・六分・新飯田・小中川・灰方・燕の6駅(1500V)が開通し全線営業を開始。同8年9月5目、燕−東関屋間貨物営業。昭和9年8月1目東関屋−県庁前間も貨物営業を開始する。(併用軌道で貨物?さぞかし不思議な光景だったろうと思われる。)

 昭和18年新潟合同自動車と合併。新潟交通株式会社が設立された。昭和33年県庁前−新潟駅間の敷設免許が失効。新潟接続は夢となってしまった。

 昭和39年6月16目新潟地震発生。鉄道線は1ヵ月後、軌道線は翌年1月に復旧。

 昭和55年10月31日には鉄道無線がつけられた。昭和57年7月1日、貨物輸送が廃止される。

 平成元年9月には白山前(元県庁前)一東関屋・月潟一燕間の廃止が発表され、このうち白山前一東関屋間は併用軌道の騒音や振動、交通渋滞に悩む住民から廃止が歓迎され平成4年3月19目限りで廃止された。一方、月潟−燕間も地元自治体からの反対があったものの平成5年7月31目限りで廃止された。

 東関屋駅は平成4年4月に始発駅としてバスターミナルが新設され「レールアンドバスシステム」としてバス線と電車線を効率化させ、残存区間の安定を目指す。が旅客の減少は止まらず、平成9年4月17日、鉄道線全線の廃止が発表される。廃止予定は平成10年3月末であったが沿線の7市町村が協議の結果、単年度の赤字を負担することを決定。しかし国や県に支援を期待するが、新潟県は6月鉄道線支援を拒否。この時点で平成11年3月31日の廃止が決まった。しかし廃止日が平日であるので多くの人が集まれる4月4日日曜日限りとなった。

 新潟交通、蒲原鉄道両社とも利用者減−運転本数減−利用者減の負の悪循環をたどるのではなく、運転本数の確保、ワンマン化などの合理化、そして新潟交通は31.9キロのうち14.5キロ、蒲原鉄道は21.9キロのうち17.5キロを廃止させてまで鉄道線の存続に取り組んできた。しかし、施設老朽化し新規の投資も行えず、結局は廃止への道を歩んでしまうことになる。

 鉄道にしか出来ないこともある。環境間題を考えるのなら尚更である。しかしどうにもならない。まいっか、と軽い気持ちにもなれない。が経済であるのでどうしようもない。儲けにならないのならば切り捨てるしかない。現実はこんなものである。せめて「新潟交通電鉄線」という電車が昔は走っていた、と記憶を胸に刻み込むことしか出来ない。

 

 

 

2月12日金曜日

 今日は蒲原鉄道を見舞う。平日ダイヤなので二連結の電車が朝に走っているはずである。心配なことに大雪の予報がでているが天気はまだ大丈夫。

 五泉駅に到着。ちょうど7時19分発の蒲原鉄道がホームに待機していた。あわてて撮影にとりかかり、発車を見送る。辺りを見渡すと、撮りに来た人、乗りに来た人がやはり多い。だが通勤・通学時であり一般人も多い。しばらく駅をうろつき撮影場所を変えるため改札をでる。しかしどこに行っても撮影者はいる。皆さんさすがである、とおおいに感心してしまう。しばらく待つと、早くも今日のメインがやってきた。見えてきたのは、「モハ61+クハ10」の2連である。しかし、それはファインダーの中をかなりのスピードで駆け抜けてしまった。走行写真の難しい所である。

 ここで撮るか、乗るかを迷うが即決で乗ることにした。ここで「鉄道写真マニア」なら間違いなく写真を撮るほうにまわるだろう。だが私はあえて「鉄道史」としての蒲原鉄道を想いこれに乗らねばならない、ということでモハ10側に乗り込む。中は学生でいっぱいだ。ローカル線にとって何よりのお客が学生である。私などは一度きりの客であるので隅のほうで小さくなって蒲原鉄道を想いやる。新潟交通21,6キロと違ってこちらは4,2キロ。距離が短い分だけ撮影者の密度が高いように思われる。

 8時03分出発。右に急カーブして1キロで今泉停留所。田圃と県道の間をまっすぐ進むこと3.2キロ。わずか7分で終着村松駅へと着く。あっというまである。傍から見るとなんでこんな短い鉄道があるのだろう、と考えてしまうのだろう。さすがに一度訪れた事のあるこの駅ではやることがない。撮影者もひっきりなしにやってくる。皆さんご苦労様なことである。その後ただ一つの中間駅である今泉駅で降り撮影。車内で硬券に出会い感動しつつも、内心は新潟交通を想っていた。どうしても会いたくなり、この後もう一度訪ねることにした。

 昼過ぎに、新潟交通東関屋駅に到着。今回は電車には乗らずに信濃川関屋分水路にかかる橘まで歩く。ここの撮影ポイントがなかなか良さそうだったからである。風が強い。三脚が飛ばないかと不安になるほどだ。しかし空が見える程のいい天気であり安心して撮影を行う。「青空のキモチ」を想い、ふと空を見上げる。廃止線を前にぼ一っとする時間がただ欲しかった。そこへなにやら爆音が聞こえる。独特の目立つ塗装が施されたそれは、間違いなく航空自衛隊のヘリ。「そういえば、飛行場もあったな」と思い出し、「KV−107UA−5」を眺める。あらかじめ調べておいて正解だった。

しばしの安堵ののち天気は急変する。なぜだか、なにか降ってきたようだ。雨ではない、が雪でもないようだ。ぱらぱら音がするのは困ったことに「あられ」だった。「天がそれを望むなら…」と覚悟をきめて待ち構える。カメラをかばいながら、必到になっての撮影となってしまった。対岸にも撮影者。皆よくやるよ、本当に…。

 

 

「蒲原鉄道」

大正11年、蒲原鉄道が設立。同12年10月20日、五泉−村松間4.2キロが県内初の電気鉄道として開業。昭和5年7月22日には村松−東加茂間・同年10月20目東加茂−加茂間21.9キロ全線が開通した。昭和26年からはバス運送事業も開始。昭和55年1月貨物輸送を廃止。

 しかし乗客人員の減少から昭和60年3月31日村松−加茂間17.7キロを廃止。開業当初の五泉−今泉−村松の3駅4.2キロの営業となる。

 村松駅は鉄筋コンクリート3階建ての重厚な駅舎で昭和55年11月6日に竣工したものでありバスターミナルを兼ねており廃止された加茂方面にも向かう。

 残念ながら、蒲原鉄道も廃止を免れず、近い将来廃止される運命にある。

蒲原鉄道の車両は戦前のものがほとんどである。まさに76年という歴史の伝統が感じられるだろう。私は新潟交通の廃線も残念だとは思うが、この蒲原鉄道の歴史が失われることに対してより深く嘆いてしまう。

 なお3月31目廃止予定だが住民との話し合いがついておらず、時期は若干伸びる可能性もある。(注:廃止は半年にのびて10月となった)

 なお、私鉄5路線の資本金をちょっと古いが参考までに記しておきたい。 

92年実績 

松本電鉄4億3200万円 上田交通1億6000万円 長野電鉄5億5000万円 新潟交通14億円 蒲原鉄道5200万円(会社全体なのでバス路線その他含む)

 

 

「航空自衛隊新潟分屯基地」

 新潟分屯基地は民間の新潟空港と共用している。所在部隊は航空自衛隊航空救難団新潟航空隊MU-2SとKV-107UA-5。他に新潟県讐ヘリ、ベル206B・L-4・ベル412、新潟県防災ヘリ、シコルスキーS-76Bが所在している。また民間機ではエアーニツポン・ジヤルフライトアカデミー・全日空・日本エアシステム・日本航空・アエロフロート・ロシア国際航空・大韓航空などが発着している。

 所在部隊の新潟救難隊は日本海中部海域を担当。連絡などでたまにC-1,C-130H,YS-11がエプロンに駐機することもある。また新潟港には第9管区海上保安本部があり、つがる級7番船「えちご」が所属している。いま日本海が面白く、他にも大物が停泊している可能性もある。

 

 

 

2月13日土曜日

 晴天、風強し。雪がちらほら混じる。今日も大雪の予報。計画はほとんど立てていない。直感で動こうと思う。

 やはり、電車は雪の為に遅れている。地域によって天侯の差が激しいようだ。新潟駅から「JR越後線」に乗り込む。乗り込んでから迷う。新潟交通に会うべきか、別れるぺきか。今は雪。雪中撮影は昨日でこりた。ここは神妙な気持ちで立ち去る事を決意する。いつやられるかの賭けはできない。「ごめんよ新交。もう一度また来るからな。」悲しくなってくる、が外は吹雪いている。結局は濡れるのを嫌って怖じ気づいてしまっただけなのか?

 三駅ほど過ぎてから後悔し始める。一体何をやっているのだろう。内野駅を過ぎると急に線路が白くなり、空はどんより、そして弥彦の山が近づいてきた。不気味な天気だ。弥彦線などにいっていたら帰って来れないかもしれない。慎重居士の優柔不断ぶりが見事にあらわれ、結局は越後赤塚駅で折り返し。一体何をやってんだか…。年をとると疲れる。椅子に座ってしまうとおっくうになってしまうのである。戻るにつれて天気が回復していく。どうやら迷っている間に太陽がでてきたようだ。これはこれで良かった、ということか。結局三日連続の新潟交通訪問となる。相変わらずの撮影をしながら、寒さと戦う。どうやら風邪をひきそうだ。廃止。「見上げた青空はたかくて風冷たくて、どうにもならないきもちは変わらない」

 17時ごろ、駅に最敬礼して立ち去る。「短い夢をありがとう。新潟交通電鉄線」

 

 

 ここで話が終わればいいのだが、ここからも優柔不断ぶりが見事に発揮されてしまった。最初17時14分「柏崎」行きにのって「特急みのりorいなほ」にのって新潟に戻る、という周遊キップを無意味に最大限に乗る方法を考えたが、駅ホームに柏崎行と新潟行が同時に入線。迷ったあげく、雪が怖くてまっすぐ新潟行に乗り込んでしまった。あっというまに新潟に到着。「ムーンライトえちご」発車まで7時間以上ある。さてどうしよう。しばらく新潟の駅をうろつき、これからに備えて腹ごしらえ、本の買い溜めに走る。これで3時間ほどは時間がつぶせたが、いかんせん限界がある。

 駅に戻って改札の様子をうかがうと、なにやら黒板がでている。「ふっ、不吉な…。ムーンライト運休だったらどうしよう。」不安になってのぞき込む。「いなほ15号、雪の為、遅延」とのこと。どうやら羽越本線がやられたらしい。あわてて駅員さんに尋ねてみる。「あの一すいません、羽越本線はどうなっているのですか?」「どこまでいくのですか。」「いや、村上始発の電車は定刻どおり運行ですよね。」「村上始発??いや一今は山形県内が大雪で遅れていてね。村上までは今のところ大丈夫だと思います。」なにやら要領を得ない問答の後、ますます不安になってきた。「今のところ」というのは一体なんなんだ。第一私の聞き方が良くない。「ムーンライトえちご」に乗るために新潟から村上までいって待つ、という訳の分からない乗り方を隠して質問してしまったからだ。なにも村上までいかなくても新潟で待っていれば良いのだ。しかし待っているうちに不安になる。つい先日もムーンライトは運休になっている。夜間を走る電車は除雪の為に運休になることも多い。「特急いなほ」もすでに1時間の遅れでダイヤはすでに混乱状態。この電車は柏崎まで行っていたら乗って帰ってこようと思っていた電車だ。どうやら上越方面も危ないらしい。完全にパニックな状態である。はたして無事に帰れるのか。夜行ゆえの不安である。

 

 急に落ち着きを無くしそわそわした挙げ句、唐突に20時02分「JR白新線」新発田行に飛び乗る。北上するにつれて、雪が舞い始めてきた。線路に積もった雪を吹き飛ばし電車は進む。窓の外には雪がこびりついていた。対向電車が雪を滑らし、闇夜に白霧の風を巻き起こす。結局、新発田についたのが15分ほどの遅れ、20時50分。接続電車、もとい接続列車の「キハ110型」が隣ホームに待機。雪に埋もれたホームを駆け抜け、乗り換える。列車はすぐに発車。いきおい駆け込んでしまったが、なにも乗らなくても新発田でムーンライトを待っていても良い。が、ここは乗りかかった船というもので村上まで行くことにする。

 

 ますます雪は激しくなり、すでに外を見ることも出来なかった。窓についた水滴が見事に凍り付く。このような天侯でも力強く走り抜ける列車に脱帽する。雪国の恐ろしさを身をもって体験する。闇夜の雪というものが、ますます心臓の鼓動を早め、身震いを起こす。

 21時30分、やっとの村上へと辿り着く。側線に目を向ける。心強いことにそこには「165系ムーン仕様」の車両が止まっていた。ただ側線にというのが気になるが…。駅員さんに尋ねる。「ムーンライト大丈夫ですよね。」ここでもし「だめです」などいわれたら私は140分遅れといういつ来るか分からない「特急いなほ」に乗って新潟で宿を探すしかない。しかし素っ気なく「はい?大丈夫ですけど。」とのこと。無愛想だが、その言葉は私に力強くJRの自信が伝わってきた。さすが天下のJR。大雪でも動じることのない、その完璧さ。その雪対策におおいに感心する。しかしこちらの人にとっては日常茶飯事なのだろう。当然の顔をした駅員さんがそれを物語っていた。

 

 22時25分。酒田行特急「いなほ11号」が入線。この電車は本来村上19時04分のはずである。つまり3時間21分の遅れ。これだけでも雪の被害が分かるだろう。

 その10分後、22時35分快速「ムーンライトえちご」がやっと出発。私もやっと平穏を取り戻す事ができた。困ったことに進行方向に対して逆向きの椅子であった。これは後程分かったが羽越本線から信越本線に入るには新潟にてスイッチバックをしなければならない。

 実は乗る前から一つの懸念があった。それは私の周遊キップのゾーン券有効期限が2月13目までということである。今は13日の夜中。ムーンライトえちごはダイヤ改正後の日付変更線を新津駅で迎えることになっている。(以前はその先の加茂駅だった。18キップ利用者にとっては嬉しいことであろう。)周遊キップは行き券、ゾーン券、帰り券の3枚でできている。私の帰り券は2月14日、ゾーン出口の宮内駅(長岡の隣)から北朝霞駅までを買ってある。ここで私のいいたいことがわかったであろう。つまり日付変更線以降2月14目分の新津一宮内間のキップを持ち合わせていないことになってしまうのだ。距離にして51.1キロ、950円の無賃乗車となってしまう。新津駅には23時41分到着。寝台特急日本海2号を待ちつつ、懸念の車内検札がやってきた。内心びくびくしながら指定席券と帰り券、それにあと数分で期限のきれるゾーン券を差し出す。はたして敵はこのからくりを見破れるだろうか。自分で申告はせず、相手の顔をうかがう。彼は席の確認をし、ゾーン券、帰り券を一瞥し「ありがとうございます」で返還する。私の顔は自然とほころぶ。どうやら若造の車掌に勝ったのだ。これがきっと年配の車掌ならきっと見破られていただろう。18きっぷの目付変更線パターンはよくあるが、周遊キップの目付変更線パターンはあまり例がないのだろう。彼らもまだまだである。安心したら眠くなってきた。埼玉県人としてめったに見ることのできない大雪を眺めつつ、しだいにうとうとする。

 

 2月14日、2時過ぎに目がさめる。外に目を向け現在地を確認してみる。見えた駅は越後湯沢駅。スキー場もライトアップされ幻想的な景色が広がる。「スキー客のいないスキー場は静かでいいな。」よく分からない感想を抱きつつ、我ながらいいタイミングで目がさめたものだ、と感心する。これから天下の清水峠越えをしようというのに寝ていては申し訳がない。できれば石打駅から起きていたかったが…。

 越後中里駅を通過する。ここから線路は二手に別れる。下り線の新線は大きく迂回してトンネルに入るが、こちらは上りの旧線。つまり勾配20パミール、半径400メートルのループ線二か所、その間に山越えの清水トンネルが控えている難所である。がトンネルだろうが駅だろうが電車は夜行。乗客は皆うとうとしている中、一人闇夜の向こうを凝視し必至にメモをとっている自分はいささか異常である。ループトンネルの感覚は分からないが、目を凝らし奇跡的に土樽駅、土合駅、湯檜曽駅を順次確認していく。

 

 山越えを終え、久しぶりに大きな駅へと到着する。山越えの玄関口として、かつて大いに栄えた水上駅である。ホームを望むと隣に新潟・村上行の「ムーンライトえちご」が待機しているのが見える。しばしの停車のあと、これから新清水トンネルに挑む下り線の健闘を祈り、上りムーンライトえちごが発車する。

 4時30分、誰もいない大宮駅へと到着する。6両編成の車両から降りた人間もわずかであり早朝の物悲しさを味わう。埼京線を待つ。自分一人かと思ったらなぜか数人の客がいた。いったい彼らはどうしてこんな時間の電車を待つのであろうか。私は自分の体の疲れも忘れ、充実した気持ちで帰路についた。

 

 

「ムーンライトえちご」

夜行快速電車「ムーンライト」の元祖はこの「えちご」である。夜行高速バスに対抗するために設定された電車で1987年に14系客車3両の臨時列車としてスタート。その頃の「えちご」は「ナイトバード」(函館一札幌)や「9375M」(臨時大垣夜行)同様、時刻表に載っていない幻の臨時列車であった。その後、廃車予定だった165系急行型電車に、余りものの「グリーン車用シート」を取り付けたものが登場。定期運行となった。

 当初は単にシートのみを取り替えた状態であったが第五編成から内装を一新し、新車なみの設備を誇るようになった。現在はすべてこのタイプに統一され近年、座席のさらなる改良が進められている。各編成とも3両単位で構成。(3両、もしくは6両。) 

 下り線は新宿を23時09分に発車。途中池袋・赤羽・大宮と停車し日付変更後、高崎に停車。新前橋・水上・越後湯沢では運転停車を行い(ドアは開かず)、4時5分長岡停車。見附・東三条・加茂・新津と停車し新潟には5時6分着。運転方向を変え5時14分、全席自由席となった「えちご」は豊栄・新発岡・中条・坂町と停車。村上には6時5分に到着する。

 一方、上り線は村上22時31分発車。新潟23時22分。長岡を1時9分に発車し新宿到着は5時10分となる。

 

「清水越えの鉄道」

上越線の水上−石打間の清水越えは太平洋側と日本海側の間の脊梁山脈を一気に越える山岳線である。この清水越えにより信越本線に比べて東京−新潟間の距離を98キロも短縮するという効果をもたらしたが、その決定までは紆余曲折があった。当時のトンネル掘削技術から、茂倉岳の下を通るトンネルの長さを10キロ以内に抑える為に南と北に二か所にループ線を入れて高度を確保するという方式がとられた。こうして勾配20パミール(1000分の20の勾配)、半径400メートルのループ線二か所が清水トンネルの長さを9702メートル、最急勾配15.2パミール、最高地点は標高676.8メートルとすることができた。

 工事は大正11年5月に着工、昭和6年8月に完成。総工費350万円。同年9月1日に上越線として全通した。この山越えの水上−石打間は41.5キロ。水上からループ線をのぼった所に湯檜曽駅、石打よりのループ線を降りたところに越後中里駅、越後湯沢駅が置かれたが、湯檜曽−越後中里間は24.7キロもある。そこで清水トンネルの南に土合、トンネル中央に茂倉、北に土樽の3つの信号所が置かれた。後に土合、土樽の両信号所は駅に昇格している。

 当初、急坂のトンネル内は蒸気機関車を電機機関車で牽引することになり、石打駅と水上駅は機関車付替の基地となった。新潟県内では、これが国鉄線の最初の電化区間となった。(県内最初の電化は蒲原鉄道。)全線電化は昭和22年11月。その後輸送量の増加に伴い、複線化の計画が立てられ、昭和36年以降の国鉄第二次五か年計画で工事が具体化した。いくつかの計画が立てられ、清水トンネルよりも低い位置に10キロを越える長いトンネルを掘り、ループ線を避けて勾配を緩和するというルートが採用された。昭和38年10月茂倉岳に新トンネルを掘削。昭和42年に竣工し、全線電化した。総工費84憶3000万円。トンネル最高点は623メートル。全長12.3キロ。新トンネルは下り線が使用することになった。

 新線は水上駅まで20パミールの勾配で北に進み、新たにループ線の上から手前に新設された湯檜曽駅に入り、新トンネルに入る。土合駅は新清水トンネルの中に作られ、地上駅(上り線の駅)との高低差82メートル、長さ338メートル、階段の数は462段というものになってしまった。土樽駅は新清水・清水両トンネルの北口が並ぶので位置の変更などはなかった。

 現在、清水トンネル、新清水トンネル、そして昭和55年に開業した上越新幹線の大清水トンネル(2万2228メートル)が駅を作らず一気に通り抜けている。

 

 

 

主な参考文献(順不同) 

*角川日本地名大辞典15新潟県 1989年10月8日発行 角川書店 

*角川日本地名大辞典20長野県 1990年7月18日発行 角川書店 

*角川日本地名大辞典10群馬県 昭和63年7月8日発行 角川書店 

*JR・私鉄全線各駅停車6中央・上信越590駅 宮脇俊三・原田勝正編集 1993年2月20日 発行小学館

*JR・私鉄全線各駅停車3奥羽・羽越480駅 宮脇俊三・原田勝正編集 1993年9月20日 発行小学館

*JTB時刻表 1999.2 1999年2月1日発行 JTB 

*車窓はテレビより面白い 宮脇俊三著 1989年2月28日発行 徳間書店 

*途中下車の味 宮脇俊三著  平成4年6月25日発行新潮社 

*別冊歴史読本国鉄・JR鉄道廃線カタログ 種村直樹編集 1996年11月発行 新人物往来杜 

*日本の私鉄109  山と渓谷杜1992年9月1日発行 

*今日ものんびり新潟交通 武相高校鉄道研究同好会 会報「停車場」第50号 平成11年2月12日発行

*鉄道廃線路を歩く各巻 宮脇俊三編著 JTB1995年11月1日発行(I巻) 

*青春18きっぷ完全攻賂ガイド 中尾一機著 イカロス出版 1997年7月30日発行 

*Rai1Magazine NO.184 ネコ・パブリッシング 1999年4月1日発行 

*伊藤久巳の全国鉄道撮影ガイドJR編 伊藤久巳著  イカロス出版1996年8月20日発行 

*実力アップシリーズ ー眼レフを使いこなす 國府田修二編集 玄光杜 平成7年12月15日発行 

*全国エアベースウオッチングガイド イカロス出版 1996年7月15日発行 

*信州佐久平みち、潟のみちほか 街道をゆく9 司馬遼太郎著 朝日文芸文庫 1979年2月20日発行

*新版山本五十六 阿川弘之著 新潮杜 昭和44年11月30日発行 

*ラジオライフ 99,3 三才ブックス 1999年3月1日発行 

*ラジオライフ 99,5 三才ブックス 1999年5月1日発行 

 

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